向井良吉《花と女性》1969年(2013年設置),アルミニウム
(むかい りょうきち 1918-2010)京都府京都市下京区生まれ。京都市立美術工芸学校彫刻科卒、東京美術学校彫刻科塑像部在学中に新制作協会展出品。1937年島津マネキンで荻島安二にマネキン制作の指導を受ける。1946年七彩工芸を創業。1951年行動美術協会彫刻部の創設に参加。武蔵野美術大学造形学部芸能デザイン学科(現・空間演出デザイン学科)教授。
大阪市北区にあったホテルプラザに設置されていた作品。レリーフであり、抽象的な箇所が所々にみられ(アカデミックな人体ではない)、なおかつアルミニウムをつかっている点で1960年代において特筆すべき作品である。モンタージュ技法を取り入れつつ、キュビスムのような建築物(城、街並み、ビル)がアルミニウムという頽廃的な見た目をしたメディウムの力を借りて立体的に起ちあがってくる様は、後に生まれた世代の私としても「若者が社会の在り方について抵抗し苦労した時代なんだな」というように思いグッとくる。規模が大きすぎて全体のまとまりに欠けるという印象は否めない。
慶應義塾(1858-)
慶応義塾大学三田キャンパス
朝倉文夫《平和来》1957年,ブロンズ
菊池一雄《青年》1949年,ブロンズ
飯田善国《星への信号》,ステンレス
飯田善国《知識の花弁》1982年,ステンレス
宇佐美圭司《やがて、すべてがひとつの円の中に》1982年,新図書館,壁画
イサム・ノグチ《無》,白河石,南館3F屋上庭園
飯田善国《知識の花弁》1982年,ステンレス
宇佐美圭司《やがて、すべてがひとつの円の中に》1982年,新図書館,壁画
イサム・ノグチ《無》,白河石,南館3F屋上庭園
【未見】
本郷新《わだつみのこえ》,新図書館地下1F,ブロンズ
北村四海《手古奈》1909年,大理石
北村四海《手古奈》1909年,大理石
→1957年撤去され、1975年8月修理・設置
→1957年撤去され行方不明、1978年5月美術科教諭の三浦大和により復元・設置
堀進二《今宮新先生胸像》1977年,ブロンズ
慶応義塾普通部
岩田健《かたつむり》1982年,ブロンズ
井上武吉《》○○年,ステンレス
慶応義塾大学日吉キャンパス
吉田三郎《平沼亮三胸像》1955年,ブロンズ
国方林三《藤原銀次郎像》1950年,ブロンズ
→理工学部同窓会寄贈
峯孝《牧童》1956年,ブロンズ
不明《松永安左エ門君像》○○年,ブロンズ
大熊氏廣《福澤先生像》1892年,ブロンズ
→鈴木嘉幸(長吉)鋳造
【参考】
ユニコン
世田谷美術館(1986-)_20160131-0203
※○○年は制作年
「世田谷美術館銘板」草水(くそうず)みかげ?or万成(まんなり)石?
澄川喜一《そりのある形》1983年,ステンレス・石
淀井敏夫《海の鳥と少年》1981年
向井良吉《吾、大地》1987年,白銅・真鍮
→(むかい りょうきち 1918-2010)京都府京都市下京区生まれ。京都市立美術工芸学校彫刻科卒、東京美術学校彫刻科塑像部在学中に新制作協会展出品。1937年島津マネキンで荻島安二にマネキン制作の指導を受ける。1946年七彩工芸を創業。1951年行動美術協会彫刻部の創設に参加。武蔵野美術大学造形学部芸能デザイン学科(現・空間演出デザイン学科)教授。
本郷新《わだつみのこえ》1950年,ブロンズ
→(ほんごう しん 1905-1980)北海道札幌市生まれ。東京高等工芸学校彫刻部(現千葉大工学部)卒。高村光太郎に師事。国画会会員、1939年新制作協会彫刻部、1945年日本美術会の創設に参加。1948年日本共産党に入党。
※1949年全国の戦没学生が遺した手記を集めて編集した『きけ わだつみのこえ』が刊行された。「わだつみ」は「わた(海)のかみ」と同義で「海をつかさどる神」を意味する。
※1949年全国の戦没学生が遺した手記を集めて編集した『きけ わだつみのこえ』が刊行された。「わだつみ」は「わた(海)のかみ」と同義で「海をつかさどる神」を意味する。
佐藤助雄《桃源》1983年,ブロンズ
柳原義達《しゃがむ女》1958年,ブロンズ
→(やなぎはら よしたつ 1910-2004)兵庫県神戸市生まれ。東京美術学校彫刻科卒。朝倉文夫に師事、文展入選、国画会会員、1839年新制作派協会彫刻部の創設に参加。1970年日本大学芸術学部主任教授。
→本作は平塚市美術館の《座る女》と同年制作
→本作は平塚市美術館の《座る女》と同年制作
バリー・フラナガン《馬とクーガ》1984年,ブロンズ
→(Barry Flanagan 1941-2009)イギリス、ウェールズのプレスタティン生まれ。バーミンガム美術工芸学校でフィリップ・キング、セント・マーチン美術学校でアンソニー・カロに師事。ヘンリー・ムーアの助手を務める。「野兎」シリーズは1980年頃から始まる。1970年「人間と物質」展のために初来日したらしいが出品はしていない?
→クーガ(cougar)はピューマ
→クーガ(cougar)はピューマ
トニー・クラッグ《三葉虫》1989-1990
→(Anthony Caro 1924-2013)イギリス、サリー州ニューモールデン生まれ。ケンブリッジ大学工学部卒、ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ卒。1951-53年ヘンリー・ムーアの助手を務める。1959年から抽象彫刻をつくり始める。
菊池一雄《ながれA》1978年,ブロンズ,新制作展出品作
→(きくち かずお 1908-1985)京都市上京区に日本画家・菊池契月の長男として生まれた。藤川勇造、小林万吾に師事。東京帝国大学文学部美学美術史科卒。1934年二科展特待受賞。新彫塑協会に参加。1936年渡欧しシャルル・デスピオ、ロベール・ブレリックに師事、翌年サロン・ドートンヌ展入選。新制作派協会会員。京都市立美術専門学校彫刻科教授。1949年『ロダン』を刊行、毎日出版文化賞受賞。東京芸術大学教授。
保田春彦《赤錆の壁がある砦》1986年,コールテン鋼
→(やすだ はるひこ 1930-)和歌山県に保田龍門の元に生まれた。東京美術学校彫刻科石井鶴蔵教室卒、1958年渡欧しアカデミー・グランド・ショーミエールでオシップ・ザッキンに師事。1975-1999年武蔵野美術大学教授。
舟越保武《杏》1984年,1984年新制作展出品作
→(ふなこし やすたけ 1912-2002)岩手県二戸郡生まれ。県立盛岡中学校(現・県立盛岡第一高等学校)では、のちの洋画家松本竣介と同期であった。東京美術学校彫刻科塑造部卒。新制作派協会会員、多摩美術大学教授、東京美術学校教授。
土谷武《遠くがみえる》1986年,コールテン鋼・石
→(つちたに たけし 1926-2004)京都市東山区生まれ。京都市立美術工芸学校(現・京都市立芸術大学)彫刻科卒、東京美術学校卒。新制作派協会会員。1961-63年渡仏しエコール・デ・ボザールで学ぶ。68-73年多摩美術大学彫刻学科教授。75-96年日本大学芸術学部教授。
下田治《開きかけのイメージ》1986年,鉄
用賀プロムナード(1986-)
→設計者:象設計集団
→淡路瓦が各所に用いられている。
佛子康夫《》○○年
【参考】
「徳島県立近代美術館 作家・作品検索」http://www.art.tokushima-ec.ed.jp/category/0007207.html
澄川喜一
「澄川喜一HP」http://www.sumikawa-art.com/
向井良吉
「JAMDA(日本マネキンディスプレイ商工組合)HP」 http://www.jamda.gr.jp/museum/03/08.htm
トニー・クラッグ
保田春彦
「武蔵野美術大学美術館・図書館 展覧会情報」http://mauml.musabi.ac.jp/museum/archives/3305
志津雅美・有田武生《まる》1986年,しおかぜ緑道
意匠:志津雅美
制作:有田武生
素材:能勢石
志津 雅美(しず まさみ 1948-)
鹿児島県に生まれる。
有田 武生(ありた たけお 1947-)
福岡県北九州市小倉区に生まれる。
東京造形大学彫刻科卒業。
能勢石
正式名称は石英閃緑岩。1935年から採石され始めた。
→各地で採れる石に名前が付けられるようになったのはいつ頃からなのだろうか?
【参考】
http://ohosisamas.web.fc2.com/gallery/old/1986/1986.html 志津雅美
http://boseki-info.jp/shurui/noseishi.html 能勢石
山田光造《明日へ》1981年(2015年撤去・保管),浦安市本庁舎中庭
山田 光造(やまだ みつぞう 1945-)
【参考】
左が新本庁舎
右が現本庁舎
新と現本庁舎の間に本作は設置されているのだが、工事中で確認できない。
→本作《明日へ》は、浦安市東野の倉庫にて段ボールに入った状態で保管されているらしい。
現本庁舎